創業期の保険、入るべきものと不要なもの
創業期の保険、入るべきものと不要なもの
なぜ、この場面で判断を誤りやすいのか
創業期は「何かあったら会社が終わる」という不安がいちばん強い時期だ。保険は、その不安に直接語りかけるように設計された商品でもある。だから、必要性を検証するより先に、安心を買ってしまいやすい。
最初に置いておきたい原則はひとつだけだ。保険は「使わなければ得をする」賭け事ではなく、自分で抱えきれないリスクを、コストを払って外部に移すための仕組みである。自分で抱えられる規模のリスクにまで保険をかけるのは、単に割高な貯蓄をしているのと変わらない。
最初に分けるべき軸:「選べない保険」と「選べる保険」
保険の話が混乱するのは、性質の違う2種類が同じ言葉で語られるからだ。
法定保険(社会保険)は、加入するかどうかを経営者が選べない。要件を満たせば、法律上、加入義務が発生する。任意保険(民間保険)は、入るかどうかも、どの商品にするかも経営者の判断に委ねられている。
営業がやってくるのは、ほぼ後者だけだ。そして前者の存在と中身を正しく理解していないと、「保険」とひとくくりにして後者の判断まで曖昧になる。まず前者を確定させてから、後者に進む。
法定保険:要件を満たせば、選択の余地はない
要件を満たすかどうかの判断だけが仕事で、入るかどうかを検討する対象ではない。
| 制度 | 加入義務が発生する条件 | 備考 |
|---|---|---|
| 労災保険 | 従業員を1人でも雇用した時点で強制加入(雇用形態・労働時間を問わない) | 経営者自身は本来の対象外。現場作業などを自分でも行う場合は「中小事業主等の特別加入制度」で任意に加入できる(労働保険事務組合を通じた手続きが必要) |
| 雇用保険 | 週の所定労働時間20時間以上、かつ31日以上の雇用見込みがある従業員がいる場合に加入義務 | 2028年10月から要件が「週10時間以上」に拡大される予定。短時間のパート採用を増やす計画があるなら、今のうちに前提として置いておく |
| 健康保険・厚生年金保険(社会保険) | 法人はすべて強制適用。代表者1人だけの会社でも加入義務がある | 「入るかどうか」ではなく「いつ手続きするか」の話。役員報酬に対して保険料が発生する点は資金計画に織り込んでおく |
任意保険の判断フレーム:発生確率 × 影響度
ここから先はすべて経営者の判断だ。判断基準はシンプルにできる。「起きる確率」と「起きたときの影響度」の2軸で、いま検討している保険がどこに位置するかを置いてみる。
(自己資金で吸収できる)
(会社の存続に関わる)
任意保険を検討するときは、常に右上のマスに入るかどうかだけを見る。「なんとなく不安だから」「経営者なら普通入るものだから」は判断基準にしない。
入るべき任意保険(該当する場合)
すべての会社に必要なわけではない。自社の事業内容に照らして、該当するものだけを検討する。
PL保険(生産物賠償責任保険)
自社が製造・販売した商品が原因で顧客に損害が生じた場合の賠償に備える。皆川さんのように食品を扱う事業では、事故が起きたときの賠償規模が自己資金で吸収できる範囲を超えやすい。施設賠償責任保険
店舗やオフィスに顧客・取引先が来訪する事業で、設備の不備や事故によってケガ・損害を与えた場合に備える。来客のない完全リモート型の事業では優先度は下がる。会社役員賠償責任保険(D&O保険)
役員の経営判断について、株主や第三者から損害賠償を請求された場合の防御費用・賠償金に備える。外部の投資家や社外役員が入る、あるいは入る予定がある段階から検討対象になる。サイバー保険
顧客の個人情報やカード情報をシステムで扱う事業で、情報漏洩・不正アクセスが起きた際の調査費用・損害賠償・事業中断損失に備える。ECやSaaS型のサービスでは優先度が上がる。不要・後回しでいい保険
営業から強く勧められやすい一方で、創業期の優先度は低いもの。
節税をうたう経営者向け生命保険
2019年6月、国税庁は定期保険・第三分野保険の損金算入ルールを改正し、「最高解約返戻率」が50%を超える保険は、保険料の全額をその年の損金にできなくなった(50〜70%は6割損金、70〜85%は4割損金、85%超は最初の10年間は1割損金が原則)。かつて広く売られていた「全額損金+高返戻率」の節税保険は、制度上すでに成立しなくなっている。「節税になります」という説明を受けたら、まずこの制度に照らして本当かどうかを確認する。過大な所得補償保険
経営者本人の入院・就業不能に備える保険。生活防衛資金(生活費の数ヶ月分)を自己資金で確保できているなら、保障額を積み増す優先度は低い。まず確保すべきは事業の運転資金であって、個人の所得補償ではないケースが多い。事業と関係の薄い火災・地震保険
自宅と事業所を分けている、あるいは在庫・設備をほとんど持たないリモート中心の事業では、事業用の手厚い火災・地震保険は過剰になりやすい。実際に何を失うと事業が止まるのかを先に特定してから、その資産に見合った補償額を検討する。将来の売却・引き継ぎ(M&A)を見据えるなら、特に注意したいもの
いま挙げた「不要な保険」とは別に、保険や保険料の扱い方そのものが、将来会社を売る・引き継ぐ場面で問題として顕在化するケースがある。目先のコストを下げる目的で行った処理が、デューデリジェンス(DD)で簿外債務や税務否認リスクとして指摘され、譲渡価格を自ら下げてしまう構図だ。
社会保険・雇用保険の未加入、対象者の意図的な絞り込み
パートや契約社員の労働時間を加入基準未満に抑える、雇用ではなく業務委託契約に切り替えて加入義務を回避する、といった運用は、中小企業のM&Aで最も指摘されやすい労務デューデリジェンス事項のひとつ。遡って徴収できる範囲は健康保険法・厚生年金保険法上の時効により最大2年分に限られるが、それでも数百万円規模の簿外債務として買収額から差し引かれる、あるいは表明保証条項違反として扱われることがある。保険料を抑えるための運用が、そのまま将来の譲渡価格を下げる要因になる。低解約返戻金型保険を使った「名義変更プラン」
解約返戻金が低く抑えられている期間に契約者を法人から役員個人へ変更し、その低い評価額で譲渡する節税手法。2021年6月の国税庁通達(所得税基本通達36-37の改正、通称「ホワイトデーショック」)により、解約返戻金が資産計上額の70%未満の場合は資産計上額で評価するよう改められ、この手法による節税効果はほぼ失われている。過去にこの形で契約者変更した保険が残っている場合、経済的利益の供与や役員賞与の認定リスクとしてDDで指摘対象になりうる。経営者個人の生命保険料を法人の損金にしている
事業との関連性を説明できない、経営者個人やその家族を被保険者・受取人とする保険料を法人の経費として処理しているケース。税務調査で否認されれば追徴課税・重加算税の対象になり、M&AのDDでも同様の指摘を受ける。「個人が負担すべきもの」と「事業リスクに備える法人契約」は、契約の時点で目的をはっきりさせておく。いずれも、始めた当初は「節約」や「節税」のつもりであることが多い。だが将来会社を売る・引き継ぐ選択肢を残すなら、こうした処理は先に精算しておくほうがいい。判断に迷う契約や処理があれば、DDで指摘されうるかどうかという観点で、契約している税理士・社労士に一度確認しておくと安心できる。
皆川さんのその後
皆川さんはまず、法定保険の手続きを労務まわりの専門家と一緒に整理した。任意保険は、製品事故のリスクが自己資金で吸収できないPL保険だけを契約し、生命保険と所得補償の提案は保留にした。月6万円だった提案は、最終的に1万円台まで絞り込まれている。
判断に迷ったら、原則に戻ればいい。まず法定か任意かを分ける。任意なら、発生確率と影響度で右上のマスに入るかどうかを見る。それだけで、提案書の何割かは自然と削れる。
簡易診断:自社にはどの保険が関係するか
6つの質問に答えると、検討対象になる法定保険・任意保険の目安が表示されます。
法定保険(該当すれば加入義務)
検討したい任意保険
まとめ
| 区分 | 考え方 |
|---|---|
| 法定保険 | 要件を満たせば加入義務。検討対象ではなく、確定すべき事実 |
| 任意保険(入る) | 発生確率は低くても、影響度が自己資金で吸収できないもの |
| 任意保険(保留) | 影響度が自己資金で吸収できるもの、または節税など保険本来の目的からずれているもの |
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